『僕のヒーローアカデミア』は、中国で成功した日本アニメの一つになるはずだった。
実際、中国の若者向け動画サイトでは高い人気を獲得し、劇場版も公開されていた。しかし2020年、一人のキャラクターの名前をきっかけに状況は一変する。大手動画サイトから次々と配信が停止され、中国市場での展開は大きく後退した。
この出来事は単なるアニメの炎上騒動ではない。中国市場でビジネスを行う日本企業が直面する「見えないリスク」を象徴する事件でもあった。
ヒロアカは中国で人気作品だった
現在の状況だけを見ると、「中国ではもともと人気がなかったのではないか」と考える人もいるかもしれない。
しかし実態は逆である。
ヒロアカは中国の若者層から高い支持を集めていた。主人公の成長物語、個性的なキャラクター、王道ジャンプ作品らしい熱血展開は、中国でも十分に通用した。Bilibiliでは考察動画やMAD動画が数多く投稿され、二次創作文化も活発だった。
特に爆豪勝己や轟焦凍は、中国の推し活文化との相性が良く、多くのファンを獲得していた。
つまりヒロアカは、中国で失敗した作品ではない。むしろ成功していたからこそ、その後の炎上が社会現象レベルにまで拡大したのである。
問題となった「志賀丸太」という名前
騒動の発端は2020年に登場したキャラクターだった。
人体実験を行う医師タイプの悪役に「志賀丸太」という名前が付けられていたのである。
日本人から見れば、珍しいとはいえ実在しそうな名前に見える。しかし中国では全く違う意味を持った。
旧日本軍731部隊は、中国東北部で人体実験を行った組織として知られている。そして被験者を「丸太(マルタ)」と呼んでいたという認識が中国社会に広く浸透している。
そのため、中国のネットユーザーから見ると、「人体実験を行う人物」と「丸太」という言葉の組み合わせは偶然とは受け止められなかった。
作者や編集部は意図を否定し、名前の変更と謝罪を行った。しかし騒動は収まらなかった。
なぜここまで大炎上したのか
日本では炎上が起きると、「作者に悪意があったのか」が議論されることが多い。
一方、中国では「社会にどのような影響を与えるか」が重視される。
この違いが極めて大きい。
中国では抗日戦争や731部隊に関する記憶は単なる歴史知識ではない。学校教育、映画、ドラマ、記念館、SNSを通じて繰り返し共有される国家的な歴史認識の一部になっている。
そのため日本人が「悪意はなかった」と考える事案でも、中国社会では「歴史問題への配慮不足」と受け止められることがある。
ヒロアカ騒動はまさにその典型だった。
中国特有の「自主規制システム」
この事件を理解する上で重要なのは、中国企業の行動である。
騒動が広がると、Bilibili、テンセント動画、愛奇芸、優酷などの大手プラットフォームが相次いでヒロアカ関連コンテンツを下架した。
日本人はここで「政府が命令したのだろう」と考えがちだ。
しかし中国では必ずしもそうではない。
企業側が先回りしてリスク回避を行うのである。
中国のインターネット企業にとって最も避けたいのは、政治問題や社会問題の渦中に巻き込まれることだ。そのため炎上が一定規模に達すると、正式な指示を待たずに自主的な対応を取るケースが少なくない。
これは日本のコンテンツ市場にはあまり見られない特徴である。
日本人が見落としている本当の論点
多くの日本人は、この事件を「中国人が怒った話」と理解している。
しかし本質はそこではない。
重要なのは、中国では歴史認識が市場そのものに影響を与えるという点である。
日本では作品の評価は主に面白さや完成度で決まる。
ところが中国では、それに加えて歴史、政治、社会的影響という評価軸が存在する。
人気作品であっても、その軸に抵触した瞬間に市場から消える可能性がある。
ヒロアカ事件は、中国市場において「人気」と「安全性」が別物であることを示した象徴的な事例だった。
日本アニメ業界への影響
この事件以降、日本のコンテンツ企業は中国向け展開に以前より慎重になった。
特に警戒されるのは、歴史問題、戦争表現、地図表記、台湾、香港、新疆などに関連するテーマである。
近年はアニメだけでなく、ゲーム業界でも同様のチェックが行われている。
中国市場は巨大で魅力的だが、その一方で文化的・政治的なリスク管理が欠かせない市場でもある。
ヒロアカ騒動は、日本企業にその現実を強く認識させた出来事だった。
日本人にとっての意味
この問題はアニメファンだけの話ではない。
中国市場の重要性が高まれば高まるほど、作品制作の段階から中国市場を意識する動きが強くなる可能性がある。
つまり将来的には、キャラクター設定やストーリー、用語選びにまで影響が及ぶかもしれない。
ヒロアカ事件は、一つの名前が炎上したという話ではない。
グローバル市場で成功するために、創作表現と文化的配慮をどこまで両立させるべきなのかという、現代のコンテンツ産業が抱える課題を浮き彫りにした事件なのである。
Amazonプライム・ビデオで見ると見え方が変わる
現在、日本ではヒロアカを比較的自由に視聴できる。
しかし中国では配信停止や流通制限を経験した作品でもある。
その背景を知った上で作品を見ると、単なるヒーローアニメとしてだけではなく、「同じ作品が国によって全く異なる評価を受ける」という国際市場の現実も見えてくる。
近年の日本アニメが世界市場でどのような課題に直面しているのかを考える上でも、ヒロアカ騒動は非常に興味深い事例と言えるだろう。

